ほとんど毎日、書店をのぞかないではいられない。だから、いつも平積みされた新着本には、興味がある。
ベストセラーは、無視できない。おめあての作家の新作は、いまかいまかと待ち望んでいる。
でも出版されて数十年、文庫化されて版を重ねて、いまだ読者を魅了するそんな本こそ見逃せない。
仕事や義務や義理ではなくて、ただ「何か読みたくなった」とき、心に引っ掛かった一冊を紹介します。
冷布亭氏からのご案内は、月に2回のお届け予定です。

[連載エッセイ No.5]

プロフィール
ロバート・B・パーカー「失投」(菊池光訳)

早川文庫 1985年10月初版 (原著1975年発行)

   探偵スペンサー・シリーズ。今もなお、ほぼ年一作のペースで新作が発表され、すでに30数作を超える人気のハードボイルド探偵小説シリーズだが、小生がはじめて手にしたのは、第3作『失投』だった。30年近くも前、友人から薦められて手にしたのは、現在の早川書房版ではなく、別の出版社から他の訳者によって刊行されたものだった。原著は1975年に発表されているから、おそらく初訳は翌年1976年か。現在、それが手元にないのが残念だが、ひとつ面白いエピソードがある。
   文中、スペンサーは朝早く起きてジョギング、ボストン大学のジムでウエイトトレーニングを45分やり、さらにボクシングでヘヴィバッグを30分打ち続けるシーンがある。ところが、初訳では「ジョギング」がたしか「よろよろと歩いて」となっていたように記憶する。“よろよろと歩いていたものが、ジムでがんがんトレーニングできるものか”とはじめて読んだときには不思議に思っていたのだが、もちろん菊池光訳早川版では“正しく訳され”て、なんら違和感はない。
   しかし1976年創刊された雑誌ポパイがアメリカの若者文化を紹介するまで、おそらくフリスビーやスケートボードとともに、ジョギングなんて言葉はほとんどの日本人が知らなかったに違いない(中学生時代に購入した英和辞典を引くと「とぼとぼ歩く」!)。だから、初訳には責任がない(と思う)。むしろ、いち早く、スペンサーに出会えたことを感謝するばかりだ。

   その「失投」は、アメリカ・メジャーリーグが舞台だ。
   ボストン・レッドソックスのエース、マーティ・ラブが八百長をやっている微かな疑いがある。その調査を球団事務所から引き受けた私立探偵スペンサーは、マーティの妻リンダが、自らの過去を隠していることに疑念を抱く。リンダは、少女の頃家出をし、売春婦になり、ポルノ映画に出演していたのだ。忘れ去りたい過去を犯罪組織に知られ脅され、マーティが投球に手加減を加えざるを得なかった耐え難い事実をスペンサーは突き止める。
   スペンサーは犯罪組織の元締めを殺し、さらに八百長に関与していた球団アナウンサーとその子分を徹底的に痛めつけ、その口を封じる。リンダは自らの過去を新聞に公表し、気持ちの精算を計るとともに、その勇気ある行動で、家族を世のバッシングから守ることに成功する。
   「初秋」「レイチェル・ウォレスを探せ」「約束の地」など、その他傑作、人気作は初期のものに集中するようだが、傷ついた弱者が失意の底から自立の道をなんとか見いだし、それに味方する騎士スペンサーという図式は、「失投」以来不変だ。

   なお、蛇足ながら、レッドソックス入りした松坂大輔に願うのは、もちろん「快投」である。

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