ほとんど毎日、書店をのぞかないではいられない。だから、いつも平積みされた新着本には、興味がある。
ベストセラーは、無視できない。おめあての作家の新作は、いまかいまかと待ち望んでいる。
でも出版されて数十年、文庫化されて版を重ねて、いまだ読者を魅了するそんな本こそ見逃せない。
仕事や義務や義理ではなくて、ただ「何か読みたくなった」とき、心に引っ掛かった一冊を紹介します。
冷布亭氏からのご案内は、月に2回のお届け予定です。

[連載エッセイ No.10]

プロフィール
森 鴎外「雁」

岩波文庫 1936年2月 初版 (1911年9月〜1913年5月 雑誌スバル連載)

   時代小説を読むとき、特に江戸が舞台の時はその時代の地図、つまり切絵図と現代の地図を重ね合わせたものを傍らに置く。“小説は絵空事”と判っちゃいるけれど、鬼平の馴染みの居酒屋を本所緑町の一角に“発見”したり、「用心棒日月抄」の好漢青江又三郎の寓居を蔵前のとある神社の裏あたりと目星をつけてみたり・・・。こうした”古地図もの”は多数出版されていてCD−ROMや、インターネットでも楽しめて、江戸時代ばかりでなく、明治、大正、昭和の時代を垣間見ることができる。
   さて本書の巻末には、森鴎外=森林太郎が立案した「東京方眼図」の一部、明治42年(1909)の本郷、上野界隈が掲載されている。それほど詳細な地図ではないけれど、物語をより深く楽しむためには欠かせない。坂崎重盛の「一葉からはじめる東京町歩き」(実業之日本社 2004年10月)は鴎外をはじめ、漱石、太宰から向田邦子まで東京の町々を舞台にした文学散歩案内だが、この「東京方眼図」全図の複製が付録としてついていて、文豪鴎外の才能の一端を知らされる。

   話はいたって簡単なものだ。東京大学医科大生の岡田は散歩の途中、本郷無縁坂の一軒の家に住む美貌の女とふと目を合わせる。高利貸しの末造に囲われたお玉という女だった。ある日、お玉が飼っている駕篭の小鳥を青大将が襲っているところに、岡田が通りかかり、蛇を始末する。それがきっかけで二言、三言話を交わした。お玉は岡田が家の前を通るのを心待ちにするようになる。岡田もお玉のことが気にはかかるが、それをどうする術もない。友に誘われ散歩に出た岡田は、不忍の池で休む雁を見つける。友にけしかけられ岡田が石を投げると、命中して雁は死んでしまう。岡田は友に、恩師の紹介を受けてドイツへ行くことが決まったことを告げる。

   その岡田の散歩の主な経路は、東京大学を不忍の池の方に降り、上野の森を巡り、湯島切り通しから戻るというもの。中には、今も池之端仲通りで営業している蓮玉庵で蕎麦を食べるシーンもあって、舞台は100年以上も前なのに(文頭で鴎外はこの話は明治13年=1880年のことだったと書いている!)、ぐーんと親近感が沸いてきて、実際に歩いて楽しく魅力的なコースだ。
   「雁」は、女性への淡い思慕と自らの立身出世の思いの間で揺れる明治青年の青春小説だが、今の私にとっては100年前の明治という時代へ誘うタイムマシンであり、本郷上野界隈の散歩案内でもある。

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