ほとんど毎日、書店をのぞかないではいられない。だから、いつも平積みされた新着本には、興味がある。
ベストセラーは、無視できない。おめあての作家の新作は、いまかいまかと待ち望んでいる。
でも出版されて数十年、文庫化されて版を重ねて、いまだ読者を魅了するそんな本こそ見逃せない。
仕事や義務や義理ではなくて、ただ「何か読みたくなった」とき、心に引っ掛かった一冊を紹介します。
冷布亭氏からのご案内は、月に2回のお届け予定です。

[連載エッセイ No.44]

 

プロフィール
森まゆみ谷中やなかスケッチブック」

ちくま文庫 1994年3月 第1刷  単行本 エルコ 1985年12月

   『坂と路地と寺の町、谷中。古い火鉢や桶に植えられた草花、子供たちの遊び声があふれる路地。寺の門前には昔ながらの和菓子屋、煎餅屋。・・・寺町の歴史と今を、谷中に魅せられた著者が何回も取材し、ていねいにまとめあげた一冊。』とカバー裏に案内があるが、これはどこか地方の、昔の話ではない。東京都台東区谷中、上野の森の北側に位置するこの町は、初出からすでに20数年を経た今も、そのたたずまいはほとんど変わらぬように見える。
   本書は谷中の「今」の魅力をいくつも紹介してくれるが、そのひとつが谷中墓地だ。『空が広い。木が多い。ビルの影など見えず、木と空がそのままつながっている』ので、鳥が鳴き、リスが顔をのぞかせたりして、ここが山手線の内側とはとても思えない。墓地を貫く大きな通りは立派な桜並木で春は花見客でにぎわうが、日頃は著名人の墓を見ながら散策する人も少なくない。掃苔趣味は小生にはないが、それでもこの墓地の一角に明治初期の落語家、三遊亭圓遊の墓を見つけたときは、手を合わせた。
   桜並木の突き当りにある経王寺というお寺には、高さ3〜4メートルの露座の仏様があって、ここも小生がいつも手を合わせるところだ。その『経王寺の前の石屋の角を曲がって四、五軒目に、入口を木立ちにかこまれ、うす緑の石塀とコントラストをなす真っ黒な、一見異様な建物(中略)、この建物が明治の彫刻家、朝倉文夫の旧居であり、彼の作品や所持品を陳列した私設美術館』の朝倉彫塑館がある。『玄関を入り、まずアトリエ(陳列室)の天井が非常に高いのに気づく。十四メートルもある』。そこには「墓守」「母の像」「時の流れ」など名作がずらりと並ぶ。見どころは他にも多く、そこは本書で読んでいただくか、または実際に訪ねて実感していただければと思うが、このアトリエの屋上にはぜひ上がっていただきたい。谷中は都心部の中でも台地の上にある。谷中墓地は隣だ。ぽつぽつマンションらしきものも近くに建ったりしているが、360度さえぎるものがない。本当に空が広い。

   著者、森まゆみは作家であり、また「地域雑誌 谷中根津千駄木」の編集人として知られる。通称「谷根千」は1984年創刊、現在90号まで出ているが、残念ながら、来年93号を以て、終了予定と聞く。文庫版あとがきに『谷中は下町ブームとやらで少し有名な土地になり、見学の人も増えた。ずいぶん多くの建物が壊され、バブルで地価が上がり、また下がった。この本に書いてもなくなった建物もあるし、いなくなった人もいる。いま読むと生硬な文体でもある。しかしそれらについてあまり変えることはしなかった。なぜならこの本は私にとっては二十代の、町にとっては1985年の紙碑だから・・・』と森は書く。誰よりも谷中を知り、愛している森の偽らざる心境だろう。
   それでも谷中は素敵だ。日暮里駅西口を出てすぐに春は枝垂れ桜が美しい本行寺、左へ行けば谷中墓地、朝倉彫塑館だ。まっすぐ行けば夕焼けだんだん、谷中銀座・・・。あっ、その前に、すぐそこの蕎麦屋川むらで、かつ煮をつまみにちょっと一杯。

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