ほとんど毎日、書店をのぞかないではいられない。だから、いつも平積みされた新着本には、興味がある。
ベストセラーは、無視できない。おめあての作家の新作は、いまかいまかと待ち望んでいる。
でも出版されて数十年、文庫化されて版を重ねて、いまだ読者を魅了するそんな本こそ見逃せない。
仕事や義務や義理ではなくて、ただ「何か読みたくなった」とき、心に引っ掛かった一冊を紹介します。
冷布亭氏からのご案内は、月に2回のお届け予定です。

[連載エッセイ No.74]

プロフィール
本田靖春「誘拐」

ちくま文庫 2005年10月 第1刷/文春文庫 1981年3月 第1刷
単行本1977年9月

   東京オリンピックの前年1963年、東京の下町で起きた幼児誘拐「吉展よしのぶちゃん事件」を題材にしたノンフィクション。すでに世の中、テレビ時代。「吉展ちゃん誘拐」の報道は連日ブラウン管(古いね!)を通して日本全国に伝わり、世間の同情と好奇の目を集めた。同時に、幼い子供を持つ親たちの不安をあおり、片田舎の少年だった小生も日が暮れるまで遊んでいて家に帰ると「今までなにしとったんや。誘拐されるで」と、母親から叱責されたものだった。

   警察の初動捜査のミスが響き、犯人を取り逃し、2年余が経過してようやく真犯人が、逮捕される。小原保おばらたもつ、吉展ちゃんの名前と同時に、この犯人の名はその後も長く人の記憶に残るが、実は初期から容疑者の一人として何度も俎上に上がっていた。
   本書では、小原保という男の生い立ちとその生きざまを丹念にたどりながら、失地回復に執念を見せる警察の捜査ぶりも詳細に再現される。疑わしきは罰せず、容疑は濃厚だが決定的な証拠がないために小原保を真犯人と断定できず、その他に有力な容疑者も浮かんでは消えていき、事件は迷宮入りの様相も呈してきた。捜査陣を組み替え、小原保のアリバイを崩し自供を引き出したのが、平塚八兵衛部長刑事だ。国鉄総裁が轢死体で発見された下山事件をはじめ数々の難事件を担当し、のち1968年の三億円事件も手がける「落としの八兵衛」だ。
   自供通り、吉展ちゃんは残念ながら遺体で見つかった。死刑囚となった小原保は自分の人生を見つめなおし懺悔の日々を送りながら短歌を作ることに目覚め、39年の生涯を終えるまでに、数百首詠んだという。

   黒澤明監督の映画「天国と地獄」が公開されたのが、1963年だった。子供の誘拐、電話による身代金の要求、電話の逆探知、警察と犯人の攻防、駆け引き、そして結末まで息をつかせぬ展開で、今見てもその完成度とエンターテイメント性は評価できる。「吉展ちゃん事件」とこの映画の直接の関連性はないのだろうが、1963年という年を語る時に欠かせない事柄であることは間違いない。

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