ほとんど毎日、書店をのぞかないではいられない。だから、いつも平積みされた新着本には、興味がある。
ベストセラーは、無視できない。おめあての作家の新作は、いまかいまかと待ち望んでいる。
でも出版されて数十年、文庫化されて版を重ねて、いまだ読者を魅了するそんな本こそ見逃せない。
仕事や義務や義理ではなくて、ただ「何か読みたくなった」とき、心に引っ掛かった一冊を紹介します。
冷布亭氏からのご案内は、月に2回のお届け予定です。

[連載エッセイ No.84]

プロフィール
江戸川乱歩「D坂の殺人事件」

創元推理文庫 1987年6月 第1刷

江戸川乱歩がデビュー間もない大正13年(1924)発表の「二廃人」をはじめ、昭和30年(1955)の「防空壕」など全10編の短編集。
表題作の「D坂の殺人事件」は大正14年(1925)の発表だが、ここではじめて明智小五郎が登場する。のちに名探偵の尊称をほしいままにする明智だが、本作では「年齢は25歳に満たない定職を持たない高等遊民だが、服装には無頓着でいつも木綿の着物によれよれの兵児帯を締めている。髪の毛は長くモジャモジャで、指で引っ掻きまわすのが癖」と、紹介されている。と、まるで金田一耕助そっくりだが、これはのちに横溝正史がこの明智小五郎のモチーフを借りて作り上げたということらしい。もっとも「怪人二十面相」など少年探偵団シリーズでは、明智小五郎は小林少年を助手として、「黒い背広に、黒い外套、黒いソフト帽」という紳士然とした、容姿端麗、偉丈夫な探偵として描かれていて、こちらの方が一般的なイメージだ。2008年に公開された映画「K-20怪人二十面相・伝」は原作を大胆に脚色して話題を呼んだが、仲村トオルがまさにそのイメージ通りの明智小五郎を演じている。
ともあれ「D坂の殺人事件」は明智小五郎が密室殺人と思われた事件を見事解決するのであるが、殺された美貌の主婦と殺害犯は姦通の関係にあり、互いにマゾヒズム、サディズム性癖であったことが解き明かされる。「少年探偵団」の強く正しい世界観とは相いれない、人間の仄暗い情念を江戸川乱歩は否定しない。「赤い部屋」「毒草」「虫」「石榴」などその他の短編もタイトルを見るだけで禁忌の匂いが漂ってくるが、またそれが独特な甘美な味わいを持っていて、いまだに我々を誘惑するのだ。

ところで「D坂」とは、東京都文京区の団子坂のことだ。団子坂の途中には森鴎外の「観潮楼跡鴎外記念館」がある。団子坂を下ってしのばず通りを渡ると左手に創業明治八年の「菊見せんべい」、その先が上り坂になり名前が変わって三崎坂(さんさきざか)、蕎麦屋、すし屋、甘味処など軒を並べる中、右手には「いせ辰」、江戸千代紙の老舗だ。そしてその先にあるカフェの名が、なんと「乱歩」。ここらあたりは、もう台東区谷中。小生がよく行く古本屋もほど近い。今度の休みは、明智小五郎を気取って、団子坂−三崎坂界隈を「探偵」してみよう。この短編集には「白昼夢」という一編もあった。甘美な出会いも・・・それは到底期待できないな。

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