ほとんど毎日、書店をのぞかないではいられない。だから、いつも平積みされた新着本には、興味がある。
ベストセラーは、無視できない。おめあての作家の新作は、いまかいまかと待ち望んでいる。
でも出版されて数十年、文庫化されて版を重ねて、いまだ読者を魅了するそんな本こそ見逃せない。
仕事や義務や義理ではなくて、ただ「何か読みたくなった」とき、心に引っ掛かった一冊を紹介します。
冷布亭氏からのご案内は、月に2回のお届け予定です。

[連載エッセイ No.88]

プロフィール
井伏鱒二「駅前旅館」

新潮文庫 1960年12月 第1刷  単行本 1957年12月

   東京、上野駅前の団体客相手の旅館。修学旅行の学生たちはお国訛りで女中をからかい、引率の先生は酔っ払って無理難題を言う。慰安旅行の女工さんは遊びに出かけて足をくじいて、担架で帰館。田舎芸者を3人連れた男は、深夜の風呂場で大騒ぎ。てんてこ舞いの現場をそつなくまとめあげるのが、帳場をあずかる番頭さんの腕の見せ所。宿屋稼業数十年のベテラン番頭生野次平を主人公として、その抱腹絶倒の舞台裏が語られる。色と欲がからんだ同業者の番頭たちとの珍妙な交流も可笑しいユーモア小説だ。

   小生の手元に「交通公社の時刻表 1977年1月号」があるが、巻末には各地の観光・温泉旅館、リゾートホテルの広告が満載だ。都内の駅前旅館も掲載されていて、「ご上京・・・ご宿泊は?そんな時東京(03)876-・・・へお電話を!」「上野駅より2分。便利で静か。あなたのお宿にピッタリ!」「駅長さんも太鼓判!東京でのお泊まりは安心して泊まれる左記旅館へ!」の宣伝文句が、時代を感じさせる。
   そう、時代は変わったのだ。東京大学近く本郷あたりには未だ木造の旅館があって修学旅行生の姿を見ることはあるが、一般的にはもはや修学旅行は、旅館ではなくホテルだろう。番頭は支配人、帳場はフロントだ。
      「ここに出てくる番頭たちのしたたかさ、ズルさ、才覚と弁才、知恵と抜け目なさと
      身の軽さと臨機応変。ソロバンの達人で、いかなる状況でも上手に立ちまわる一方で、
      素朴なまでのおっチョコちょい。こういった特性は、ほぼ日本人の肖像に当たるのではなかろうか。」
と解説で池内紀は書くが、その肖像はずいぶんと変わってしまったのではないか。

   「駅前旅館」は、森繁久彌、伴淳三郎、フランキー堺、淡島千景らの出演で映画化されて大ヒット、その後「駅前シリーズ」として23作も作られ、1960年代前半の東宝映画のドル箱になったと聞く。同時期「駅前シリーズ」と並んで、やはり森繁主演の「社長三大記」「社長太平記」など東宝映画「社長シリーズ」はなんと33作を数えたというが、「したたかで、ズルくて、才覚と弁才に長け、そして色好み」の森繁社長に対し、実直で若々しい秘書役を演じていた小林桂樹が9月16日86歳で亡くなった。合掌。

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